いじめられっ子、世にはばかる

あのいじめられっ子は今。

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「タラレバ娘」と一秒前にだって戻りたくない私の決定的な違いについて。

 こんにちは、鳥山です。鳥山は映画やドラマを見るのが好きです。映画やドラマは私を現実ではない世界へぽーんとぱーんと連れて行ってくれますから、小学生の時にいじめを受けて現実が多分他の人より数百ワットくらい暗かった鳥山にはなくてはならないものなのでございます。
 今これを書いている2017年の2月には、「東京タラレバ娘」というドラマが放送されています。これは、東村アキコさんの漫画が原作で、三十代の東京に住む独身女性三人が、「あの時ああしてれば、」「もっとこうしてれば、」と若き日の自分の行いに後悔しつつ泣き、怒り、悩み、時々立ち上がり毎日を生きていくというドラマです。とても時代の生きづらさを的確に表現してくれているし、彼女たちの年齢に近い私にも、共感する部分がありました。だから最初は、楽しくドラマを拝見していました。なんなら原作の漫画も読みました。
 でも、見れば見るほど、読めば読むほど、「東京タラレバ娘」の登場人物たちと自分の間には、決定的に違うところがあると、感じるようになりました。それは、私はいつも、「今が自分史上最高の自分だ」と思って生きているということです。
 このように書くと、何か、自分がとてつもないポジティヴシンキングの権化のように思えてきますが、そんなことはまったくありません。私が、常に今がいちばんだと思っているその原因は、紛れもなくあの十代の暗黒の時期があったからです。
 私は一般的に言われるような「学生時代」ーー友達と学校帰りにカラオケに行ったり他愛もないことで笑いあったり文化祭の準備に精を出したりバイト先の先輩に恋したり気になる人とグループで遊園地に行ったり(というのがこの世には存在しているらしい)ーーを十九歳まで経験することはありませんでした。十二歳でいじめられてから、高校を卒業する十八歳まで、私がやっていたことといえば、現実逃避と勉強でした。ある意味では、勉強も現実逃避の一種でした。夜通し「ハリー・ポッター」全巻を読んで空想の世界に逃げ込むとか(あれは本当に現実逃避には最適の本です)、ひたすら勉強用のノートをハイクオリティに仕上げるとか(イラストも取り混ぜたそれはもはやひとつのクリエイティヴと化していた)が私の「学生時代」だったのです。そして十九歳になる年、東京に来て初めて、「友達と遊ぶ」という行為を知ったのです。
 だから私の体感では、私の「学生時代」は十九歳に始まり、今はそれからまだ十年ほどしか経っていないようなものなのです。一般的な日本に住む多くの人たちとは、その体感に五年ほどの差があると言っていいでしょう。たかが五年。されど五年。人は輝かしい日々が体感的に遠いと感じれば感じるほど、あの時に戻りたいと強く思うような気がします。しかも私にとってのその五年とは、暗黒時代。二度と戻りたいなどとは思いません。あの頃に戻るくらいなら、今から時間をすっ飛ばして五十代になった方がいくらかマシだと思うくらいです。
 十九歳から私の人生は始まり、ひとつひとつ、人よりは遅いかもしれないけれど、確実に今まで生きてきました。いちいち顔色を伺わなくても良い友達が出来たし、いくつかの恋も経験しました。自分という存在を否定し、いつもいつも汚れてもいない手を狂ったように洗い続けていたあの頃からすると、なんて自分は素晴らしい場所に辿り着いたんだろうと思うのです。時々、そのことでぽろりと涙を流しそうになるくらい。
 もしかしたらそれは、「あの頃」が私にくれた唯一にして最大の「良きこと」かもしれません。
 私がこの世で最も嫌いな言葉は、「いじめを経験したからこそ他人の苦しみや悲しみを理解できるようになった。人に優しくできるようになった」という主旨の言葉です。正直言って反吐が出ます。そんな結果論は糞食らえです。あんな苦しみは、経験しなくて済むのならばする必要はない! この世に生まれてくる誰一人として、あんな傷を背負う必要はない! だから私は、人から自分の優しさを褒められたとしても、それがあのいじめのおかげだとは一切思いませんし、そのようなことを人に言わないようにしてきました。いじめが生む「良きこと」など何一つないと。
 でも、もしかしたら、私が今の私を一番だと思えること。それだけは、あのいじめがもたらす「良きこと」なのかもしれない。悔しいけど、それは否定出来ない。でも、まだ私に苦し紛れに否定することが許されるとすれば。私が「今が自分史上最高の自分だ」と思えるのは、私があの時代から自力で這い上がってきた結果なのだから、これは私自身のおかげなのだと言いたい。そしてこれからは、そう言わなければならないのだと思います。
 だから私は、五年前どころか、一年前、いや昨日、もっと言えば一秒前にさえ、戻りたくはないのです。
 だってどんな時だって、今が自分史上最高の自分なのだから。

東京、そこはあたたかい

 こんにちは、鳥山です。今、これを書いている東京の街は冬の真っ只中です。東京の街は、と言いましたけれども、日本全国どこでも冬の真っ只中です。でも、今私のいるのは東京の街なので、そこが私の世界の中心なのです。
 鳥山の世界の中心は、元々東京ではありませんでした。高校卒業まで九州の片田舎にて人生をくすぶらせていました。十八年間。それを長いととるか、短いととるかは気持ち次第なところがあって、長い、とても長い、なぜ私は十八年間もあんなところに縛られなければならなかったのだと今更どうしようもない後悔に頭を抱えることもあれば、十八年間なんて、人生八十年の内の四分の一にもならんっちゃっけん、全然気にすることなか。と、武田鉄矢の母ちゃんみたいな口調になる時もあります。ちなみに、武田鉄矢の母ちゃんと言いましたけど、正確には武田鉄矢の真似する武田鉄矢の母ちゃんの真似です。嗚呼、人生はややこしい。

 そんなわけで、わたくしは生まれてから約十八年間、その九州の片田舎を世界の中心として過ごしていました。その町には電車の駅もなく、バスは一時間に一本の運行で、どこまでも広がる田園風景の中を、野良犬に怯えながら歩いて行くのが常というような、都会の人間が見たら、二十一世紀の日本にこんなところがあったのか、と驚愕するくらい辺鄙なところでした。その町は人口約一万五千、村単位でみれば百人程度、その数字はおそらく百年前からさして変わっておらず、道を歩けばスーパーに行けば飲食店に入れば必ず知り合いに会う、という世界の狭さでした。誰かが何かをすれば、次の日には一斉にその話題が各家庭の食卓にのぼりました。誰それのお兄ちゃんが某高校に受かっただの、誰それの家の長男はまだ結婚していなくて、あれはもう駄目だわねだの、そういった話がよく聞こえて来ました。町役場の職員の息子・娘がなぜか学校ででかい顔をしていて、引っ越してきた家庭にはいつまでも「よそ者」の雰囲気が漂っていました。「停滞、そして窮屈」というタイトルの絵を描きなさいと誰かに言われたら、私はきっとこの町の風景を描くでしょう。そして私はこの町でいじめられ、何もいい想い出のないこの町を捨てました。

 東京生まれ、東京育ちの人に、こう訊かれたことがあります。
「鳥山さんはさー、やっぱり実家に帰る時、電車乗りながらマッキーのアレ聴いたりするの? 『遠く、遠くー』ってやつ。私、東京生まれ東京育ちだからさあ、憧れるんだよねえ」
 マッキーとは槇原敬之氏のことで、その曲のことは私も知っていました。その曲の主旨は、自分は故郷から旅立ち、この街で頑張るけれど、故郷のことを忘れはしない、大事に思っているというものです。私は里帰りする時にその曲を聴いたことは一度もありません。いや、正確に言うなら、そのような曲を聴こうと思うようなプラスの感情を、あの生まれ育った町に対して一度も抱いたことがないのです。それどころか、あの町から出来るだけ遠く、遠く、離れたかった。だから私は高校を卒業して進学する時に、出来るだけあの町から遠い場所にある学校を選びました。福岡じゃ足りない、大阪でも足りない、もっと、もっと、もっと遠くへ! そして私が「いじめられていた」ということを知っている人が誰ひとりいない場所へ! そしてそんな私を、受け入れてくれる場所へ! それには、東京という街が最適だったのです。

 私は十八歳で東京で暮らし始めた時、心底安心しました。この街には、私がいじめられていたということを知っている人がひとりもいない! いじめられっ子のフィルターを通して私に接する人がいない! 何て素晴らしいのだろう。私はあの町で一度死んで、この東京で生まれ変わることが出来る。生まれ変わっても良いよ、と言われているような気がする。良く都会の人間は冷たい、田舎の人間は温かいと言うけれど、私に言わせればそれはちゃんちゃら嘘であったのです。子供の頃どんな扱いを受けていたか、どんなポジションだったかでその後の人間性さえも判断され、噂されるあの田舎町より、今何をして、どう生きているかの方が重要であるこの一千三百万人以上で形作られた東京砂漠は、前川清が憂いのある声で歌うまでもなく私にとって誠に素晴らしい場所なのであります。辛くて涙が出そうな時に、遠くのビル群の無数の灯りを眺めて、あの中にもきっと、私と同じように泣きたい気持ちになっている人がいると想像すると、不思議と心が落ち着きました。あの田舎町では、そんな灯りなど、見つけられなかった。夜になれば、ただただ窓の外は黒の絵の具で塗りつぶしたような暗闇だった。誰某さんちはまだ起きていて、誰某さんちはもうみんな寝てる。ただそれだけだった。そして尚更、暗闇の中で起きている自分が取り残されているような気がしたものです。でも、東京は違ったのです。知らない人々の喧騒は、田舎町の寒さに凍える私を優しく包んでくれる毛布のようでした。そしてその知らない人々の中のひとりひとりと出逢うこと、私の十八年間を知らない、でも十八年間生きてきた私を知りたいと想ってくれる人と出逢うことが、何よりも私の傷を癒してくれたのです。

東京、そこは、とても温かい場所だったのです。

星のおじさま

 こんにちは。鳥山です。あなた様には、尊敬する人はいるでしょうか。きっと誰かしら、いらっしゃると思います。ご両親、祖父母、学校の先生……その辺りが、「尊敬する人は?」の問いに対して多く挙がる人物かと思います。その人はあなた様に人生への希望と、道標を与えてくれる人なのだと思います。
 わたくし鳥山にも、そんな尊敬する人がおります。しかし、私はその人に会ったことはありません。なぜなら、その人は私に会う前に死んでしまった。いえ、正確に言うなら、私はその人が死ぬ前にその人に会いに行かなかった。
 その人に会ったことがない、なんていうと、今ならもしかしてネット上だけの付き合いなんかも連想されるかもしれませんけども、その人が亡くなったのは今から二十年近くも前ですから、ちょうどインターネット黎明期と言いますか、まだブログもツイッターフェイスブックも存在していなくて、ポチポチとHTMLを手打ちして作ったホームページやらテキストサイトやらが、亀の歩みよりも遅いダイヤル回線で表示されるような時代でありました。あの待ち時間に聴いた、ダイヤル回線のピーヒュロロロロロローみたいな音は、もしかしたらこの世で「絶滅した音」のひとつやもしれません。それから、ダイヤル回線でインターネットをしている間は電話が使えないから、電話をかけたい親から何度も怒られたもんです。今や、そんな理由で親から怒られる子供は存在しません。それは、新しい文化が成熟する前だけに立ち現れる、儚いおとぎ話のようです。
 とにかく、そんな時代でしたから、インターネット上で知り合った人と実際に会う、というようなことはまだ稀でした。そして、私の尊敬する人は、インターネットとは無関係です。むしろ、その時すでに五十、六十代であったような気がしますから、インターネットなるものに触れていたかどうかも怪しいのです。
 その人は、私の中学校の児童カウンセラーでした。私はいじめられっ子だったこともあり、中学校の三年間のうち、学校にちゃんと通ったのは通算で半分くらいです。特に最後の一年は、数えるほどしか登校をしていません。だから、私は、中学校の修学旅行に行っていません。大人になってから気づきましたけれども、学生時代の修学旅行の行き先はどこだったか、という話題は雑談の頻出テーマのようです。それは、「修学旅行」というものが、日本で義務教育を受けた人間なら、100パーセント経験するものだと信じられているからに違いありません。しかし、私はその100パーセントを打ち崩しているひとりであります。ふむ、なんかそう考えたらだんだんかっこよく思えてきたぞ。そんなわけで、「鳥山さんは、中学の修学旅行どこ行ったの?」と訊かれた時は、「広島県です」と、嘘をついています。なぜって、「不登校で修学旅行行ってないんですよねー」なんて真実を話しても、相手に気を遣わせるだけですし、なんならちょっと引かれてしまうからです。そんなことくらいは私にもわかるってなもんです。
 話が逸れました。話が逸れるのは私の生きる癖のようなものです。
 ともかく、私の尊敬するその人は、私がほとんど通わなかった中学校の児童カウンセラーだったのです。前述のように私は不登校でございましたから、両親、特に母親はそのことを心配し、一緒に学校にいるカウンセラーのところへカウンセリングに行こうと何度も言いましたが、私は頑なに拒んでいました。誰がカウンセリングなんか受けるもんか。誰にもこの苦しみなんかわかりっこない。だいたい、そんなカウンセラーになんかなる人間は、私と違って、目立たないくせに学校にだけは毎日きちんと通って、冴えないのに何故かいじめられたことはなく、趣味は人間観察(ハート)とか言って心理学を学んで、その割に「死にたい」なんて一度も思ったことない普通の人間なんだろ、とよくわからない偏見を持って拒否していました。その結果、母はひとりでカウンセリングを受けることになったのです。

 その人は、実際には、五十代から六十代のおじさまだったようです。というのは、もちろん後で母に聞いた話なのですが。
 その人は、ひとりでやってきた不登校児の母親(=私の母)と、このような会話をしたといいます。
「お母さん、娘さんは、どんなものが好きですか?」
「そうですね、よく父親と星の話や、宇宙の話をしています。それから、文章を書くことと、絵を書くことが好きです。漫画家になりたいみたいなんです」
「そうですか。それなら、大丈夫ですね」
「大丈夫ですか」
「はい。そんなに好きなものがあるのなら、娘さんは、絶対に大丈夫です」
 その人は、私と一度も会ったことがないにも関わらず、笑顔でそう言い切ったというのです。

 そしてその言葉を残し、まもなく病気で急死してしまいました。だから、私はその人に一度も会っていません。
 でも何故でしょう、何か悩み事があり、眠りにつけない夜は、その人の言葉が思い出されるのです。
 曖昧な態度を取り続けて、私を軽く扱う男性への想いを断ち切れずあがき続けた時、新月の夜空より暗いブラック企業に勤め、身も心も疲れ果ててうつ病を患った時、周りの人のように普通に生きられない自分と、その得体のない「普通」に首を絞められて心の呼吸困難に陥った時。折に触れて、その人の、「娘さんは、絶対に大丈夫です」という言葉が、私の頭の中で優しく響き渡りました。声なんて、聞いたことないのに。その一言は、家族に言われるよりも、友人に言われるよりも、不思議な力を持って私に届きます。強い確信を与えてくれます。
 優しそうなおじさまだったといいます。星の王子さまならぬ、私の星のおじさま。私はその人をそんな風に名付けています。名前は、知らないからです。
 おじさま、インターネットって知ってます? え、違いますよ、インターネッツじゃないですよ。ツイスターじゃないです。おじさま、おじさまのこと、ブログに書いても良いですか。良いですよね。おじさま、世界は目まぐるしく変わっていきます。もうダイヤル回線なんてないんですよ。光なんですよ。光。今私が見ている夜空の星は、昔の光です。今見えていても、何万年も前の、光なんです。不思議だと思いませんか、おじさま。
 私とおじさまの人生が交わることはありませんでしたが、おじさまの言葉はきちんと私という人間に届きました。それはもしかしたら、人間が自分の子供を産み、育てることと同じくらい、もしくはそれ以上に、価値のあることなのではないかと、私は思うのです。来世では、おじさまと会えるといいな、そんな風に思いながら、私は今日も生きているのです。

幸せなテレポーテーション

 こんにちは。鳥山です。突然ですが、この世には、二種類の人間がいると思います。それは、自分の棚に置いたはずのランドセルが突然どこかへ消えたことがある人間と、そんな経験はしたことがない人間です。ランドセルは上履きや給食袋、体操着に置き換えることが可能です。そして私は、紛れもなく後者の人間であります。
 私が「それ」を初めて経験したのはいつだったでしょうか。確か十二歳、小学校六年生の時だったと思います。朝教室に入って、教科書を机の中に移し、一番後ろの壁に設えられた棚にランドセルを収納するのが小学生の習わしであります。この棚、蓋がない、という、いじめられっ子にとって不利極まりない形状を呈しています。なんたって、誰でも他人の持ち物に手を伸ばすことが出来るのですから! 鍵付きとまではいかなくとも、蓋くらいは付いていれば、あるいは悪行への抑止力足り得たかもしれないのに。まあ、蓋があるくらいで悪行を辞める人間は、そもそもそんなことをしないとは思うのですが。
「そんなこと」とは何かと言えば、それは、いじめられっ子たる私のランドセルを、本人の許可なく、どこか別のところへテレポーテーションさせることであります。テレポーテーションさせるといっても、私がトイレなどへ行っている隙に、同じ壁の別の棚(大体一つか二つは使われてない棚がある。もう私の子供の頃には日本の少子化は始まっていた)に、雑に投げ入れるだけなのですが。しかしこれ、知らされない身としては結構困ります。地獄の学校生活一日を終え、なんとか生き延びたことに安堵しながらさあ帰ろうと棚を見ると、自分のランドセルがない! そこには何もない空虚な四角い空間が存在しているだけ! さあ困ったぞ、と思っていると、隅の方の普段は使われていない埃っぽい棚に、赤いランドセルの姿を見つけて、もやあれはと近づいてみる。するとどうでしょう、それは私の大切なランドセルなのです。優しい叔母が入学祝いに買ってくれた、ランドセル。その姿は、よく見ると何か白い粉で汚れていました。白い粉といっても、薬物ではありません、もちろん、いくらいじめっ子と言えども所詮小学生、そんな物は手に入れられやしません。その粉はチョークです。先生が黒板に板書する時のチョークの粉で、ランドセルは汚されているのです。私は涙を堪えながらそっとその白い粉を払います。チョークだって、こんなことをするために生まれてきたわけじゃないぞ、と、唇を噛み締めながら。私はまだ知りませんでした。ランドセルの中には、私の悪口をたくさん書いた紙が入っていることを。

× × ×

 それから十年ほどが経ち、私は二十二歳になりました。もうしばらく、物がテレポーテーションするところに出くわしていませんでした。やっと、私は、あの苦々しい超常現象から解放されたのです。
 しかしある夏の夜だったと思います。私は久方ぶりに、テレポーテーションに遭遇するのです。六畳一間の狭い賃貸住宅の中で、突然、ある物が姿を消していることに気づきました。その、ある物とは。パンツです。パンティとかショーツとか、洒落た言い方もありますが、私のそれは、パンツです。一枚のパンツが、いくら部屋の中を探しても見当たらないのです。赤より薄い、でもピンクよりは濃い色の、白いフリルがついたパンツ。自分のパンツがない! これは一大事です。もしかしたら、十年ほど前の、なんとなく犯人がわかっていたテレポーテーションよりも、深刻な事態です。もしかして……もしかして、私が昼間仕事に行っている間に、誰かが部屋の中に入っている? 私はまずそう思いました。私は、以前、そのマンションの前でエントランスに入ろうとした時、徐行運転をして私に近づいてくる(ように思われた)不審な赤い車を見たことがありました。最寄駅近くで電車に乗っていた時、がらがらの車両にも関わらず、にやにやしながら私の隣に腰を下ろす人に遭遇しました。大家の男性(推定六十代)も、やけに親しげで怪しい気がします。
 あれこれ考えた末に、私はある一つの対策を講じました。それは、朝外出する時に、マンションのドアの一番上に、紙切れを挟んでいくというものです。そしてその挟まった様子を携帯のカメラで記録しておきます。こうしておけば、誰かがこのドアを開けた時に、紙切れはひらひらと地面に落ちることでしょう。そして万が一その誰かが落ちた紙切れに気づいて再びそれをドアに挟んだとしても、落ちる前と全く同じようには挟めないはずです。その角度はきっと、私が写真に撮ったものとは違っているはずです。その違いによって、私はこの私の城たる六畳一間に、見知らぬパンツ泥棒が入っているか判断できるという寸法です。
 結果からいうと、答えは「否」でした。ドアの上の紙切れは、朝マンションを出た時とまったく同じ(であろう)角度でそこに鎮座しておりました。
 私は胸を撫で下ろしました。これで、とりあえず私のいない間に他人が足を踏み入れているという線はなさそうです。しかしそうなると、疑問は残ります。一体ぜんたい、私のパンツは何処へ消えたのか? あの、可愛いパンツは。
 それでもとりあえず、パンツの一つや二つなくても人は生きていけます。それが極貧の中の唯一のパンツというならまだしも、私には労働によって得る賃金があり、その賃金を握りしめてパンツを買いに行ける身体があり、そもそも他にも家にはパンツがあり、空は青く、海は広く、君は美しく。
 ゆえに、私はおのずとそのパンツがないことを徐々に忘れていきました。そして、また以前のように、平々凡々とした生活を送っていました。そして数ヶ月後、掃除機の紙パックを取り替えようとした時、パックの口に赤より薄い、でもピンクよりは濃い色を見つけることになるのです。

 容疑者の名前はヒタチといい、やけに青白い顔をしておりました。お腹はでっぷりと出ているのに、腕はやたら細長いという特徴を持っていました。こいつは生来、何でもかんでも食べるという性質を持っているのですが、今回はあろうことか、ご婦人のパンツを飲み込むという奇怪な行動を起こしてしまったのです。私はヒタチの口から、そのご婦人(=私)のパンツを引っ張り出し、埃まみれのそれ(容疑者は埃を一番の好物としていた)を眺めて、本当に声を出して笑いました。
 良かった、本当に良かった。あの時、この部屋には確かに誰も不法侵入していなかったし、私の持ち物を盗もうとしている人はいなかった。それがわかって、とても嬉しかった。あの十二歳の時の、棚から棚へランドセルがテレポーテーションした時とは、まったく違うんだ。物がなくなる。それは、誰かが悪意を持って盗んだゆえだと、もう思わなくて良いんだ。
 十年経って、埃まみれのパンツを片手に笑いながら、私は突然そう悟ったのです。
 そして、そんな幸せなテレポーテーションに出会うまでに、私は長い長い暗闇を、必死で歩いてきたのでした。
 その話は、また今度。

あの人は今。もとい、あのいじめられっ子は今。

 こんにちは。鳥山です。挨拶は大事です。私は以前、勤めていた職場のほとんどの人から敬遠されている女性に、毎朝挨拶をし続けました。周りの人は老いも若きも誰一人その女性に「おはよう」どころか会釈もしないのに、です。ところがさすがその女性もほとんどの人から避けられているだけあって、私が朝出勤して「おはようございます!」と声をかけても、「おはよう」どころか会釈も返しません。これは厄介でございます。難攻不落の予感がします。もしくは、なぜ周りの誰もが話しかけないのに、この後輩は私に「おはようございます」と言い続けるのだろうと驚きと不思議で戸惑っていたのかもしれませんが。とは言え私も生まれついての奇人変人でございますから、これはかえってやり甲斐ありと見て、毎日毎日、その女性に「おはようございます!」と挨拶し続けました。相変わらず返ってくる言葉はないのですが。
 そんな状態が一ヶ月くらい経った頃、私はいつものようにまるで誰もいない海に投げかけるかのごとく、「おはようございます」とくだんの女性に挨拶しました。するとどうでしょう、「おはようございます」と、か細い、今にも消え入りそうな声で、挨拶が返ってきたのです!
 私は顔には喜びを出さず、すん、としていましたが、心の中では小躍りしていました。ポケモン、ゲットだぜ! もとい、挨拶、ゲットだぜ! と叫びながら。その時はもちろんこの世にポケモンGOなんてありませんでしたが。あの爆発的ヒットはなんだったのでしょうね。今でもたまに街中で飽きずにポケモンGOをやっている人を見かけると、「この人は恋愛においても一度付き合ったら長そうだ」などと根拠のない心理テスト的なものを実行してしまいます。
 すみません、話が逸れました。そういうわけで、私はたとえ周りから嫌われている人でも、挨拶を貰えば小躍り出来る人間なのです。そして、たぶん私がその女性にしつこく挨拶をし続けていたのは、私が子供の頃いじめられっ子だったということと無関係ではないように思います。そう、私は、子供の頃クラスメイトたちからいじめられていました。そしてそれから約二十年後、大人になってこうしてブログなどを書いています。いじめられていたという過去を持つ人の中には、その過去を話したがらない人もいると思います。それは至極自然なことで、戦争を経験した人が、みな戦争体験を子供達に聞かせたいかと言ったらそれは違うのです。話したい人は話しても良い、話したくない人は話さなくても良い。それでいいのでございます。私は、いじめられたということを話したいと思うことがあります。その理由は、このブログを更新しながら追い追い探っていくとして、もし、その私の欲求が、「子供のころいじめられていた人間が、大人になってどういう人生を歩んでるんだろう?」と思っている人へのひとつのお答えになるのであれば、これ幸い、と思いつき、このブログを立ち上げた次第です。「あの人は今」ってな感じで昔活躍していた芸能人を取り上げる番組があるならば、「あのいじめられっ子は今」ってなブログがあってもいいんじゃないかしらん、と。そう思った次第です。
 これからこのブログでは、いじめられっ子だった私が「今」をどんな気持ちで過ごしているかを綴っていこうと思います。面白おかしい時もあれば真面目な時もあるかと存じます。そして一個だけ読んでくださる方に言っておきたいのは、私は別に聖人ではないということです。どんな理由があろうと、いじめはいけないことです。それは紛れもない真理です。けれど、それと同時に、いじめられっ子が聖人君子でいなければいけない義務もありません。私はちょっと変てこな感性を持っているかもしれませんが、けっこう普通の人間で、皆さんとさしたる違いはないと思います。嫌いな人もいますし、たまに他人の悪口をうっかり言ってしまう時もあります。それをどうか、前提として知っていて欲しいと感じています。
 それではこれから、よろしくお願い致します。
 そしてあわよくばこのブログが書籍化されることを祈って、冒頭の挨拶とさせていただきます。挨拶は、大事です。