いじめられっ子、世にはばかる

あのいじめられっ子は今。

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幸せなテレポーテーション

 こんにちは。鳥山です。突然ですが、この世には、二種類の人間がいると思います。それは、自分の棚に置いたはずのランドセルが突然どこかへ消えたことがある人間と、そんな経験はしたことがない人間です。ランドセルは上履きや給食袋、体操着に置き換えることが可能です。そして私は、紛れもなく後者の人間であります。
 私が「それ」を初めて経験したのはいつだったでしょうか。確か十二歳、小学校六年生の時だったと思います。朝教室に入って、教科書を机の中に移し、一番後ろの壁に設えられた棚にランドセルを収納するのが小学生の習わしであります。この棚、蓋がない、という、いじめられっ子にとって不利極まりない形状を呈しています。なんたって、誰でも他人の持ち物に手を伸ばすことが出来るのですから! 鍵付きとまではいかなくとも、蓋くらいは付いていれば、あるいは悪行への抑止力足り得たかもしれないのに。まあ、蓋があるくらいで悪行を辞める人間は、そもそもそんなことをしないとは思うのですが。
「そんなこと」とは何かと言えば、それは、いじめられっ子たる私のランドセルを、本人の許可なく、どこか別のところへテレポーテーションさせることであります。テレポーテーションさせるといっても、私がトイレなどへ行っている隙に、同じ壁の別の棚(大体一つか二つは使われてない棚がある。もう私の子供の頃には日本の少子化は始まっていた)に、雑に投げ入れるだけなのですが。しかしこれ、知らされない身としては結構困ります。地獄の学校生活一日を終え、なんとか生き延びたことに安堵しながらさあ帰ろうと棚を見ると、自分のランドセルがない! そこには何もない空虚な四角い空間が存在しているだけ! さあ困ったぞ、と思っていると、隅の方の普段は使われていない埃っぽい棚に、赤いランドセルの姿を見つけて、もやあれはと近づいてみる。するとどうでしょう、それは私の大切なランドセルなのです。優しい叔母が入学祝いに買ってくれた、ランドセル。その姿は、よく見ると何か白い粉で汚れていました。白い粉といっても、薬物ではありません、もちろん、いくらいじめっ子と言えども所詮小学生、そんな物は手に入れられやしません。その粉はチョークです。先生が黒板に板書する時のチョークの粉で、ランドセルは汚されているのです。私は涙を堪えながらそっとその白い粉を払います。チョークだって、こんなことをするために生まれてきたわけじゃないぞ、と、唇を噛み締めながら。私はまだ知りませんでした。ランドセルの中には、私の悪口をたくさん書いた紙が入っていることを。

× × ×

 それから十年ほどが経ち、私は二十二歳になりました。もうしばらく、物がテレポーテーションするところに出くわしていませんでした。やっと、私は、あの苦々しい超常現象から解放されたのです。
 しかしある夏の夜だったと思います。私は久方ぶりに、テレポーテーションに遭遇するのです。六畳一間の狭い賃貸住宅の中で、突然、ある物が姿を消していることに気づきました。その、ある物とは。パンツです。パンティとかショーツとか、洒落た言い方もありますが、私のそれは、パンツです。一枚のパンツが、いくら部屋の中を探しても見当たらないのです。赤より薄い、でもピンクよりは濃い色の、白いフリルがついたパンツ。自分のパンツがない! これは一大事です。もしかしたら、十年ほど前の、なんとなく犯人がわかっていたテレポーテーションよりも、深刻な事態です。もしかして……もしかして、私が昼間仕事に行っている間に、誰かが部屋の中に入っている? 私はまずそう思いました。私は、以前、そのマンションの前でエントランスに入ろうとした時、徐行運転をして私に近づいてくる(ように思われた)不審な赤い車を見たことがありました。最寄駅近くで電車に乗っていた時、がらがらの車両にも関わらず、にやにやしながら私の隣に腰を下ろす人に遭遇しました。大家の男性(推定六十代)も、やけに親しげで怪しい気がします。
 あれこれ考えた末に、私はある一つの対策を講じました。それは、朝外出する時に、マンションのドアの一番上に、紙切れを挟んでいくというものです。そしてその挟まった様子を携帯のカメラで記録しておきます。こうしておけば、誰かがこのドアを開けた時に、紙切れはひらひらと地面に落ちることでしょう。そして万が一その誰かが落ちた紙切れに気づいて再びそれをドアに挟んだとしても、落ちる前と全く同じようには挟めないはずです。その角度はきっと、私が写真に撮ったものとは違っているはずです。その違いによって、私はこの私の城たる六畳一間に、見知らぬパンツ泥棒が入っているか判断できるという寸法です。
 結果からいうと、答えは「否」でした。ドアの上の紙切れは、朝マンションを出た時とまったく同じ(であろう)角度でそこに鎮座しておりました。
 私は胸を撫で下ろしました。これで、とりあえず私のいない間に他人が足を踏み入れているという線はなさそうです。しかしそうなると、疑問は残ります。一体ぜんたい、私のパンツは何処へ消えたのか? あの、可愛いパンツは。
 それでもとりあえず、パンツの一つや二つなくても人は生きていけます。それが極貧の中の唯一のパンツというならまだしも、私には労働によって得る賃金があり、その賃金を握りしめてパンツを買いに行ける身体があり、そもそも他にも家にはパンツがあり、空は青く、海は広く、君は美しく。
 ゆえに、私はおのずとそのパンツがないことを徐々に忘れていきました。そして、また以前のように、平々凡々とした生活を送っていました。そして数ヶ月後、掃除機の紙パックを取り替えようとした時、パックの口に赤より薄い、でもピンクよりは濃い色を見つけることになるのです。

 容疑者の名前はヒタチといい、やけに青白い顔をしておりました。お腹はでっぷりと出ているのに、腕はやたら細長いという特徴を持っていました。こいつは生来、何でもかんでも食べるという性質を持っているのですが、今回はあろうことか、ご婦人のパンツを飲み込むという奇怪な行動を起こしてしまったのです。私はヒタチの口から、そのご婦人(=私)のパンツを引っ張り出し、埃まみれのそれ(容疑者は埃を一番の好物としていた)を眺めて、本当に声を出して笑いました。
 良かった、本当に良かった。あの時、この部屋には確かに誰も不法侵入していなかったし、私の持ち物を盗もうとしている人はいなかった。それがわかって、とても嬉しかった。あの十二歳の時の、棚から棚へランドセルがテレポーテーションした時とは、まったく違うんだ。物がなくなる。それは、誰かが悪意を持って盗んだゆえだと、もう思わなくて良いんだ。
 十年経って、埃まみれのパンツを片手に笑いながら、私は突然そう悟ったのです。
 そして、そんな幸せなテレポーテーションに出会うまでに、私は長い長い暗闇を、必死で歩いてきたのでした。
 その話は、また今度。